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個性とキャラクター

個性の意味を概観してみよう

英語の”character”は「性格」や「個性」などと日本語訳される。

日本語の「キャラクター」という単語は、たまに派生した意味で使われることがある。

「キャラ濃ぉー」
この場合の「キャラクター」は訳と同じ「個性」という意味で使われている。
ただし『キャラ濃ぉー』それ自体で「変わり者だ」っていうニュアンスで使われている。

「このアニメのキャラは微妙」
この場合、「キャラクター」とは「登場人物」みたいに扱われている。

アニメや舞台・演劇には、日常にはいない「登場人物」がいる。

そして登場人物には個性がある。

登場人物→ならば個性がある→ならばキャラクターである

ストーリーの筋に影響を与えるだけの強い個性があるから登場しているのだ。

むしろ、それだけの影響力がない人物ならそもそも登場させちゃいけない。

劇の中の「登場人物」はエキストラたち「大衆」と比べて変わった考え方をしていなければいけない。

観衆が全く共感できる登場人物は作ってはいけない。

個性の表現方法

本筋に影響を与えたらそれは個性なのかと言えば、全く違う。

個性があるから本筋に影響できるんだ。

「個性のあるキャラクターを作れ!」

こんな「夢のドリームチーム」「頭痛が痛い」みたいな言い方があるのだが、「キャラクター」を「登場人物」と読み替えれば、それはその通りなのだ。

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デヴィッド・フィンチャーの『セブン』という映画の序盤にウィリアム・サマセット刑事(モーガン・フリーマン)が身支度をするシーンがある。これはそのうちのワンカット。

日常身につけるものを整然と一列に並べて、一つずつゆっくり鏡の前で身につけていくシーンだ。

次のカットでベッドが映されるのだが、シーツはぴたっと整えられている。
身支度に追われる出勤前にベッドのシーツなんて整っていないはずだ。
それだけで映画の観衆は「こいつは自分とは違う。」と思うし、もしかしたら「几帳面だ。」と思うだろう。

タロウは几帳面だ。

文章で表現すればたったの一行だが、映像で「几帳面」を表現する方法は何通りもある。

果たして「几帳面」とはなんだろうか?

食事の後、食器を片付ける人は几帳面というのだろうか。

多分違う。

ただ片付けるだけならその他の人と何も変わらない。

他の人と何か違わなければ、几帳面にはならない。

まず、普通の人なら食事のあと食休みをしてから食器を片付けるのではないだろうか。と考える。多分それが普通の感覚だろう。

そこで几帳面の人を表現するのに、食事の後の間を置かず後片付けをするというのはどうか。

たしかにいささか普通の人ではなくなった。

だがこれだけだと几帳面を表現し切れていないような気がする。

もしかしたら、ただせっかちなだけかもしれない。

片付けをしないとうるさい姑がいるからかもしれない。

几帳面を表現するにはもっと要素が必要だ。

今度は食器を棚にしまう作業を考えてみよう。

まず、普通の人なら洗った食器を付近で拭いて棚にしまう。

几帳面の人なら食器は付近でピカピカに拭くかもしれない。水滴や指紋を残さず拭くかもしれない。
後々の出し入れや、しまってある時の見た目の美しさにこだわって配列を工夫するかもしれない。

ここまで来てもまだ、うるさい姑がいるから、という理由を排除仕切ることができないことに気づいただろうか。

几帳面の人は普段から自らの所作に気を遣っているから、食器をしまう手や腕もゆっくりと落ち着いているかもしれない。

だから今度は、被写体の人物の動きをゆっくり丁寧にさせてみよう。

喪黒福造は個性的だ。

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この顔は小学生の頃からずっとトラウマだ。

個性には2種類ある、見える個性と見えない個性だ。(世の中には2種類の人間がいる、男と女だ)

個性は考え方だけじゃない、見た目こそ最も分かりやすい個性だ。殊、映画に関しては。

浅はかなり、と思われても構わない。

でも映画では見た目とか所作から個性を表現しなければいけないんじゃないだろうか。

絶対に登場人物に「俺几帳面なんだ」としゃべらせて、内面を表現しちゃいけない。

ヤバいヤツなら見た目がヤバい!

それが映像においては基本じゃないか。