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もしも精神転送が可能になったら

夢の時代

人工知能についてずっと興味を抱いてきたのだが、

最近はそれよりも、「精神転送」というキーワードの方が気になりだしてきた。


ランダル・A・コーン(Randal・A・Koene)というアメリカの発明家が、

「精神転送」についての理論的な実現方法やその可能性、倫理的側面について

先駆的な研究をしているそうなのだが。私もwebで調べている最中である。

それは、人間の精神部分(体以外全て)をデジタル情報としてコンピューターに取り込むというもの。

たとえば自分のノートパソコンとかが、「もう一人の自分」になったりするということだ。

技術的な実現方法云々は置いておいて、

もしも仮にそうなってくれれば、

パソコン側の自分が専業の仕事をして、

その間本物の方の自分は他のことに時間を使えるということになるかもしれない。

たぶん私だったらバスケやったり、水泳やったり、

翌日の疲れとか気にせず体を動かしまくるだろうと思う。

または、もっとうまく仕事を分担して、最もやりたいスポーツ振興に手を伸ばすかもしれない。

とってもうれしいことだ。

もうひとりの自分

でも、手足のないパソコンに自分を閉じ込めておくのはかわいそうなので、ちょっとは気を遣ったあげたい。

「容れ物」をタンパク質性の人の形をした、しかも自分にそっくりのものにすれば、

自分のコピーができるわけだ。

もしも技術的な問題なんかを乗り越えて

そんな世界ができれば、

「コピー元 vs コピー先」

でスポーツの試合だってできるようになる。

面倒な時代

しかし技術的課題を克服して、時代がこの辺りまで来ると

とうろう問題は倫理的で、意見が分かれる面倒なものになってくる。

物語を作るならここからが一番燃えるんだけどね。

おそらく自分たちが生きている間に、

ここまで技術水準があがることはないんじゃないかと思っている。

倫理的問題は子供たちがかかえる問題になってくるんだろう。

かわいそうだが倫理的な課題、これは時代を生きる人たちの課題なのだ。

それでも想像して方向性を指し示すことは私たちだってできる。

SFっていうのは、それを見てわくわくしたり、未来に希望をもったりするというのが趣旨なのかもしれないが、

後々のための方向付けとか

SFを作った人が、来るべき将来に意見するものだったりするのかもしれない。

と勝手に思っているところがある。

どっちが本物か

2120年

技術的特異点を超えた人類が

この時を迎えた。

100年ぶりの東京オリンピック

おそらく、100年後くらいにはもう一度東京オリンピックがあるんじゃないかと予想している。

出てくる問題として

「どっちが本物か論」

これは難しそう。

コピー元の主張はもちろんこうだろう。

「オリジナル(コピー元)が本物だ!」

これに異論がある人は今の時代いないだろう。

でもコピー先の主張はこうだ。

「生き残った方が本物だ」

この論点を持ってこられたらコピー元は弱い。

コピー先には臓器がない。

よって空腹もなければ、便意もない。

人口増加によって穀物価格が高騰している時代。

飢餓はコピー元にとって最大の危惧なのだ。

一方がいなくなれば、もう一方を本物とせざるをえなくなる。

余談だが、今の行政ではこの時代のインフラはもはや手に余る自体になっているに違いない。

しかし、重要なようでこの議論はさほど重要ではないと思っている。

仮に行政判断でこっちの方が「本物」と決まったところで、何もないのだ。

何の価値もない。

行政サービスの対象になるかもしれないが、それ以上ではない。

年金の受給対象になったとしても、

家族から愛されていなければ、

恋人から愛されなければ、

自分を愛してくれる人に何も貢献できないのだとしたら、

その名の通り虚しいだけ、空っぽだ。